20歳で栄養士としてスタートしてから50年余り、仕事も興味も食に関することばかりでやってきた田中美登子さん。
“びん屋”のブランド名で季節の保存食を瓶に詰め、人様に差し上げては喜びとする生活を続けています。
たくさんの保存食のレシピを全く個人的な興味によりまとめた「びん屋ノート」。
装丁デザイン:ragumo
びん屋のメニュー、幸福のお裾分け
(文学指南研究所所長・追手門学院大学教授 真銅正宏)
今からもう30年近くも前、当時、まだ大学院生であった私が、結婚を申し入れに、妻の実家に初めてうかがった時のこと。本来ならば、人生最大の緊張の場面であるが、お義母さん、すなわちこの本の著者、MITOKOさんの家庭料理のために、すべてが温かく進んでいった。ごく普通の台所から運ばれる料理は、どれも手の込んだものばかりで、魔法のようだった。
それから何度もお義母さんの料理を頂いてきたが、私には、すべて文句なく美味しく思えた。しかしながら、お義母さんは、必ず何か一言、感想を聞きたがった。私は、できるだけ、無理をしてでも、それに答えるようにした。美味しい、と言うより、もう少し辛い方が、などと生意気にも言うと、却って喜ばれた。
その後、私は、料理の姿や味について、言葉でうまく言い当てることに研究の対象を見出し、『食通小説の記号学』という本を上梓するに至るまで、のめり込んでいった。初めてNHKの「視点・論点」というテレビ番組にも出て、味と表現の関係について語った。
今から思えば、この幸福な文学研究が成り立ったのは、お義母さんの私への問いかけのおかげだったようである。
料理は、本来、人を饒舌にさせ、幸福な気分にさせるものである。しかし、MITOKOさんの料理をいつも直接食べることができる人は、残念ながら限られている。せめてこの本のレシピで、この幸せな気分のお裾分けをお受け取りいただければと思う。
さて、この素敵な本が出来上がれば、この本を肴に、そして久しぶりにお義母さんの料理を堪能するために、妻の実家に飲みに出かけることにしよう。